小倉百人一首の中にある御製

百人一首

小倉百人一首の中には、8名の天皇陛下の和歌(御製)が収録されています。

年表で見てみると

一番歌 天智天皇

秋の田の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

【現代語訳】
秋の田んぼのわきにある仮小屋の、屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露にぬれてしまったよ。
【背景】
天智天皇は即位する前は中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)といい、「大化の改新」の立役者です。この歌は、天皇が自ら田植え、雑草取り、稲刈り、藁の天日干し等、民と共に農作業をしていたであろうことがわかります。天皇が御自らも働く国、民と共にある国「シラス国」であることを示しています。

二番歌 持統天皇

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

【現代語訳】春が過ぎて夏が来た。純白の衣を干そう、天の香具山に。

【背景】第41代女性天皇。天智天皇の第二皇女で、天智天皇の弟である天武天皇の皇后。夫の天武天皇が急逝したため皇位を継承。持統天皇の時代に初めて「日本」という国号が正式に発令されました。天智天皇(一番歌)が「大化の改新」を断行して「シラス国」を取り戻そうとした偉大な天皇、持統天皇も「日本」という国号を正式に決めた偉大な天皇と言えるでしょう。

十三番歌 陽成院(ようぜいいん)

筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる

【現代語訳】筑波山の頂から流れ落ちる「みなの川」が、次第に水かさを増して深い淵をつくるように、私の恋心も積もり積もって益々深くなっていきます。

【背景】陽成天皇は第57代天皇。9歳で即位17歳で退位。その後陽成院となり82歳で天寿全う。ストレートな愛の表現

十五番歌 光孝天皇(こうこうてんのう)

君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣でに 雪は降りつつ

【現代語訳】君に捧げようと春の野に出て若菜を摘みました。私の袖には雪が降りしきっていました。

【背景】陽成天皇の攘夷を受けて第58代天皇に即位。82歳で天寿全うします。

恋歌の中には、表面的には恋心を詠っているように見えて、実は、抑えきれないほどの強い思いや気持ちを、恋に見立てて詠んでいるものもあります。

「君」は、位の高い人、目上の人、を差す以外にも、男女のこと、ひいては、世の中の全ての人々を意味し、更に、天皇の意味にもかけられることもあるそうです。

国歌『君が代』の君が、すべての人を差していて、「みんなの国が永遠に続きますように」と歌っているように、この歌の「君がため」は、「みんなのために、世の中の全ての人のために」という意味があるという解釈もあります。そうとらえると違う心も伝わってきますね。

六十八番歌 三条院

心にも あらで憂き 世に長らへば 恋しかるべき 夜半の月かな

【現代語訳】心ならずもこの辛い浮世を生きながらえることがあったなら、この夜更けの月も恋しく思い出されるのでしょう。

【背景】三条院である三条天皇は、第63代 冷泉天皇の息子で、寛弘8年(1011)に従兄弟の一条天皇の譲位を受けて36歳で第67代天皇に即位されました。時は、藤原道長が権力をほしいままにしていた時代。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」という藤原道長の歌はあまりに有名ですね。三条天皇は、藤原道真の権力の集中と横暴に心を痛めていましたが、それが道長には邪魔で邪魔で仕方がなかったのでしょう。

長和3年(1014)に三条天皇は失明してしまいました。献上されて飲んだ漢方に水銀が含まれていたからではないかと言われています。失明したことで、藤原道長は三条天皇に退位を迫りました。

天皇の権威の方が、政治的な権力者より上位であるはずなのですが、それを無視してしまえるほど藤原氏の権力は甚大だったのですね。道長の圧力に屈せず、三条天皇は退位しなかったのですが、突然の火事で皇居が全焼したり、間に合わせで作った仮設の皇居まで再度火災にあったりしたことで、退位を決意し、仏門に入り、まもなく崩御なされます。42歳の若さでした。

この歌は、第68代 後一条天皇が即位し、三条天皇が三条院となった時に詠まれた和歌です。藤原道長によって歪められていく日本の姿を憂え、生きながらえれば、満月(望月)も懐かしく思えるようになるだろう、藤原氏による横暴な政治にもそのうち影が差し、それすら懐かしいと思える時が来るでしょう、と詠んでいると解説する人もいます。

こういう歌の背景を知ると、かるたをするにしても、せめて意味を味わったうえで速取りする気持ちを持ちたいなとも思いますよね。

七十七番歌 崇徳院(すとくいん)

瀬を速み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

【現代語訳】川瀬の流れが速いので、岩にせき止められた急流が二つに分かれてもまた一つになるように、別れたあの人とも、いつかまた会いたいと思います。

【背景】平安時代末期、鳥羽院の第一皇子。曾祖父の白河法皇に可愛がられて5歳の時に第75代天皇に即位しますが、それはまだ20歳だった崇徳の父 鳥羽を退位させてのことでした。それゆえ、鳥羽院は、崇徳をよく思わなくなります。

白河法皇がなくなると、23歳の崇徳天皇は3歳の実弟に譲位。近衛天皇となります。近衛天皇は17歳で崩御。今度は鳥羽院の一番下の息子が後白河天皇(当時29歳)として即位。

崇徳院は後白河天皇と皇位継承をめぐって対立。保元の乱が起こります。崇徳院は藤原忠道(七十六番歌)讃岐に配流されます。

九十九番歌 後鳥羽院

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

【現代語訳】仏の道も人も愛おしい。仏の道も人も恨めしい。世のために思索を重ね様々な取り込みをしてきたけれどそれらが全て味気なく思える 。

【背景】99番歌 後鳥羽院のこの歌は、承久の乱の9年前、上皇になって14年目に詠んだ歌です。

承久の乱というのは、鎌倉時代の承久3年、後鳥羽上皇と鎌倉幕府 北条義時 との間で起こった戦い。

朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。王政復古を強く願われ決起され、破れた後鳥羽院。これで世は武家政治へと移っていきました。

百番歌 順徳院

百敷や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

【現代語訳】都の皇居は荒廃し、今では屋根の軒先にシダが生えてきている有様。いくら忍んでも忍びきれないのは、古き良き時代のことだ。

【背景】小倉百人一首の最後は、承久の乱に敗れ佐渡に流された順徳天皇(順徳院)の歌で締めくくられています。皇威が衰え、皇居が荒れ果ててしまっている様子。世が乱れていっている。戦乱の世の中になっていくことを止めることができなかった悲しさが、切ないまでに迫ってきます。

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