「元号」って、そもそも何?いつから使われているの?どうしてあるの?日本以外にも使われているの?
令和の由来
小倉百人一首を編纂した藤原定家のお父さん 藤原旅人が、自分のお屋敷に30人ほどの客人を招いた時、自然の美しさがあまりに素晴らしくて、こんな素敵な日には歌を詠まずに何をしようぞ、と皆で梅を題材に歌を詠んだ、その時の事情情景を説明している前文の中に出てくる言葉から採用されました。
初春の令月にして 気淑く風和ぎ、、 新元号「令和」。
『万葉集』からだなんて、なんておしゃれなんでしょう。
そもそも、元号って何?
日本初の元号は「大化」
日本で最初に「元号」が使われたのは、645年の「大化の改新」でです。
今から1300年以上も前のことですね。
第35代 皇極天皇の時に「大化の改新」という日本の国の形を変える大事業が行われました。
中大兄皇子(のちの天智天皇)が立役者となったことでも知られています。
この「大化の改新」の「大化」が、日本初の元号です。
元号は日本が独立国であることの証。
天下を治めるものしか元号は立てられないのですって。
そもそも、最初に元号を立てたのは、前漢の武帝です。
周りの国々は中国の皇帝の子分で、貢物をしてご褒美をもらう、そんな関係でした。
これを「柵封(さくほう)」と言います。
中国の皇帝にお土産を持って行って(朝貢ちょうこう)、そのお返しに何十倍もの金銀財宝、「暦」「法律(律令)」「鉄器などの技術」をもらいました。
暦っていうのは、観測技術や何やらすごい技術がないと作れないものだから、貧乏な国や技術の発達していない国は自分たちで暦を作ることはできないのね、それで、中国の皇帝から暦や法律、技術をもらって使っていたの。
分かりやすく言うと、「子分」ですよね。
日本も、「倭の武王」などという呼び名ももらっていたんですって。
子分でいれば自分で国を守る必要もないからぬるま湯状態。
国家としての足腰が弱くなりますよね。
案の定、周辺諸国で冊封を受けた国々はすぐに滅んでしまったんですって。
これじゃいけないと、第21代 雄略天皇(456-479) (倭(わ)の武王) は
中国と国交断絶!
凄い決断
国交断絶したので、自分たちで自分の国を守らなければならなくなったし、
自分たちで暦を作らなければならなくなったの。
日本、頑張ったよネ。
第33代 推古天皇(592-628) の時に、
朝貢するけど、お返しはいらないから、勉強だけさせてねと頼んだんだって。
「朝貢すれども、冊封を受けず」ってやつね。
聖徳太子(574--622) は推古天皇の摂政として活躍。
「日いづるところの天子
日没するところの天子に書をいたす
つつがなきや」
有名なこの言葉の持つ意味、背景も、知るとゾクゾクわくわくすると思います。
「大化の改新」と「天智天皇」
皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時に「大化の改新」がありました。
大化の改新の立役者 中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)はその後 天智天皇 となります。
天智天皇と聞いて、小倉百人一首に詳しいみんなは、あれっ?聞いたことある!
って気づいたに違いありません。
そう、小倉百人一首の一番歌は、天智天皇の御製ですね。
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ
今回の大会 部門1)桃札で登場するおなじみのこの歌。
この歌を詠んだ天智天皇は、皇太子時代は中大兄皇子と言って、大化の改新に取り組んだ天皇です。
大化の改新で、日本は「シラス国」であることを内外に示しました。
「シラス国」というのは、天皇は民をわが子のように愛し、民もまた天皇を父と慕う関係を根底に置いた統治方法で日本固有のものです。
「シラス」と対局にあるのが「ウシハク」という統治方法で、こちらは西洋社会で見られるように「君主は民を支配するもの」という考え方です。
日本が「シラス国」だというのは、更に遠く神話の世界にまで遡ります。
日本最初の歴史書『古事記』にその記述があるのですが、邇邇芸命(ニニギノミコト)
が天から地上へお降りになられる際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、おっしゃった言葉の中に、この「シラス」という言葉があります。
天孫降臨(てんそんこうりん)という言葉を聞いたことがありますか?
天孫降臨の際に天照大神がお示しになられた「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」のなかに、「就(ゆ)いて治(しら)せ。」ということばがあります。
詳しくは、こちらで説明していますので、興味のある人は見てくださいね。↓
(リンク先のページが消失してしまいました。🙇)
さて、小倉百人一首の一番歌は、偉大なる改革を成し遂げ日本がシラス国であることを知らしめた天智天皇の御製です。
ここから、小倉百人一首は始まります。
民を自分の子供のように大切にするという想いをお持ちでいらっしゃった天智天皇の御製。
巷の本では、
この歌の意味を、「あばら家でわしの袖が濡れてしまったわい」と解説しています。
ちょっと待って!
民を家族”おおみたから”と大切に思い大改革を成し遂げられた天皇陛下の想いがこれ?
こんな歌が千年以上も読み継がれてきたの?
マジ?
そう思っても不思議ではありませんよね。
また、現代の私たちは 上皇陛下が田植えや稲刈りをなさる様子をニュースで目にしています。
へぇ~~、天皇陛下も田植えなさるんだぁ。。。
漠然とそう思っている人もいるでしょう。
田植えや稲刈りは日本の国柄を表す大切な営みです。天皇陛下は御自ら稲をお育てになり収穫なさり、新嘗祭で天照大神をはじめとする神様(天皇陛下のご先祖様)にお供えし、収穫のご報告と私たち国民の幸せを願われています。
これは、上皇陛下だけでなく、はるか昔から続いてきた日本の国柄です。
当然、天智天皇も田植えをなさり稲刈りをなさったでしょう。
その中での御製ととらえるのが自然ではないでしょうか。
そう考えると、歌の解釈、もしかしたら間違ってない?って、疑問を抱いても不思議ではないと思います。
疑問を持ったら、考える、調べる。
これって、とても大切。
この歌に関しては、ある年配の方がこんなことをおっしゃっていました。
私たちの年代の人なら、天皇陛下も労働をなさることを知っている。
だから、袖が露に濡れているのは、それ以前に農作業をしていたからだということが自然と分かる。と。
この御製は、天皇御自ら明け方近くまで夜通し農作業をなさっている、そんなお姿をお詠いになられているという解釈は、心にストンと入ってきます。
あぁ、天皇陛下も働かれるんだなぁ、、しかも、夜通し。
おい、お前ら働けとふんぞり返っているどこかの権力者とは全く別なんだなぁ、、ということが伝わってきます。
日本って、こういう国だよ!シラス国だよ!
そういうメッセージが込められているのでしょう。
2番目の元号「大宝」から途切れていないよ
さて、
第42代 文武天皇(もんむてんのう)の時に、「大宝」という元号になりました。
「大宝律令」の「大宝」です。
余談ですが、
公文書の日付は元号で書かれますよね。
これは、この時の大宝律令で定められたものなのですって。
現在までそれが続いているそうな。
だてにお役所の文書が年号を使っているわけではないんです。
ここに根拠があったのですね。
「大宝」以降 第126代 今上陛下まで、
元号は途切れることなく続いてきています。
小倉百人一首の最後の和歌
大化の改新の立役者 天智天皇の御歌から始まった小倉百人一首は、
99番歌 後鳥羽上皇、100番歌 順徳院をもって閉じられます。
平安時代の叙事詩・抒情詩ともとれる小倉百人一首は、
鎌倉時代に入り武士が台頭し戦乱の世の中になってきて終わるのですね。
人もをし人も恨めしあぢきなく
世を思ふゆゑにもの思ふ身は
99番歌 後鳥羽院のこの歌は、承久の乱の9年前、上皇になって14年目に詠んだ歌です。
承久の乱というのは、鎌倉時代の承久3年(1221年)、
後鳥羽上皇と鎌倉幕府 北条義時 との間で起こった戦い。
朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。
きな臭さが増していく世の中だったのですね。
この歌の意味は、
仏の道も人も愛おしい。仏の道も人も恨めしい。
世のために思索を重ね様々な取り込みをしてきたけれど
それらが全て味気なく思える (小名木義行氏解釈)
となるそうです。
そして、最後は承久の乱に敗れ隠岐に流された順徳天皇(順徳院)の歌で締めくくられています。
100番歌 順徳院
百敷や古き軒端のしのぶにも
なほ余りある昔なりけり
(現代意訳)
都の皇居は荒廃し、
今では屋根の軒先にシダが生えてきている有様。
いくら忍んでも忍びきれないのは、古き良き時代のことだ。
戦乱の世の中になっていくことを止めることができなかった悲しさが、
切ないまでに迫ってきます。
小倉百人一首を編纂した藤原定家(ふじわらのていか)は、後鳥羽院に仕え、
順徳院の死去の1年前にこの世を去っています。
努力しても頑張っても、平安の世は露と消え血なまぐさい武家政治へと世の中が進んでいくのを憂いながら、平安の世を記録しようと編纂されたのかもしれませんね、
小倉百人一首に込められた想い
今回は1番歌と最後の2つの歌を紹介しました。
感じませんか?
小倉百人一首の歌の順番なんて関係ないっていうけど、ホントかな?
百人一首は恋の歌だっていうけど、ホントかな?
って。
和歌って奥が深いですよね
じっくり和歌をあじわっていくと、いろんなことに気づかされます。
日本の国って、こんなだったんだ。
昔の人も、私たちと考えたり感じたりすることは一緒じゃん!
百人一首って、もしかして時代を映す鏡?歴史がわかる?
本に書いてあることにも怪しいこと(間違い)はあるかも。
などなど。
ことふみ郡山は小学生百人一首を通して、子供たちといろんな気づきを得たい、学ぶきっかけづくりをしたいと考えています。
速さを競うだけなんて、もったいなさすぎるよ!
ということで、
第12回小学生百人一首大会は、令和6年2月11日 建国記念の日(紀元節)に開催予定です。
一緒に楽しく学びませんか?
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