古典を学ぶとどんな良いことがあるの?安岡正篤先生の言葉にみてみましょう。

古典の学習というのは、人間と人生の実戦的原理原則を学ぶこと。
明治の人は、若い時に古典や漢籍・仏書の類を読まされていました。文字というものを叩きこまれていたのです。
言葉は霊。
例えば、ヨーロッパの高等学校ではラテン語やギリシャ語を文法から教え込まれます。ヨーロッパ人がギリシャ・ラテン語をこなすということは、文化の根本的生命を吹き込まれることです。
高大文化は、偉大な先人が創造したり承継した古代文化に、精神的根柢を下した、有機的・歴史的成長発展でなければ本物ではない。
もう古い、とか、使っていないなどという言語文字で原型が作られているのです。
地中に埋まっている古い根なんて、新しい花や実に何の関係もないと思うのは馬鹿な話で、その目に見えない古い根をよく培養することが、新しい花を咲かせ実をならせる一番有効な捷径(しょうけい)近道)である。
その意味からいえば古典語は教養のもっとも実用的なものだといえよう。
プラトン・ダンテ・記紀・語孟・法華を原典で読んだ人は、永遠の高貴な心霊に触れ、無窮の生命の泉を掬む喜びに浸って心豊かになるものであり、そして不思議に相応の示唆や覚りを得て、人生の難問の思いがけない解決になることをよく知っている。
学校教育でも古代語の根本的教養がもっとも実用的なものであるということをヨーロッパの学者はもっともよく知っているようだ。
(東洋的学風 p308)