百人一首!

「小倉百人一首かるた」「筆記」「時代を代表する和歌でかるた」の三部門でポイント合計で競う、新しいタイプの”まな遊び”。そして、百人一首についても学びましょう!

百人一首大会

絶対勝ちたいと気合を入れて臨むコースと、わくわく楽しみながら臨むコースを選べます

ことふみ郡山 三部門ポイント制百人一首大会

百人一首の中の御製(ぎょせい、天皇の歌)

百人一首の中の、歴代天皇の歌(御製)とその歌の背景を解説します。


1番歌、天智天皇(てんじてんのう)

秋の田の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

【現代語訳】
秋の田んぼのわきにある仮小屋の、屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露にぬれてしまったよ。
【背景】
天智天皇は即位する前は中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)といい、「大化の改新」の立役者です。この歌は、天皇が自ら田植え、雑草取り、稲刈り、藁の天日干し等、民と共に農作業をしていたであろうことがわかります。天皇が御自らも働く国、民と共にある国「シラス国」であることを示しているのです。


2番歌、持統天皇(じとうてんのう)

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

【現代語訳】春が過ぎて夏が来た。純白の衣を干そう、天の香具山に。

【背景】第41代女性天皇。天智天皇の第二皇女で、天智天皇の弟である天武天皇の皇后。夫の天武天皇が急逝したため皇位を継承。持統天皇の時代に初めて「日本」という国号が正式に発令されました。天智天皇(一番歌)が「大化の改新」を断行して「シラス国」を取り戻そうとした偉大な天皇なら、持統天皇も「日本」という国号を正式に決めた偉大な天皇と言えます。


13番歌,陽成院(ようぜいいん)

筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる

【現代語訳】筑波山の頂から流れ落ちる「みなの川」が、次第に水かさを増して深い淵をつくるように、私の恋心も積もり積もって益々深くなっていきます。

【背景】陽成天皇は第57代天皇。9歳で即位17歳で退位。その後陽成院となり82歳で天寿全う。ストレートな愛の表現


15番歌,光孝天皇(こうこうてんのう)

君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣でに 雪は降りつつ

【現代語訳】君に捧げようと春の野に出て若菜を摘みました。私の袖には雪が降りしきっていました。

【背景】陽成天皇の攘夷を受けて第58代天皇に即位。82歳で天寿全う。

恋歌の中には、表面的には恋心を詠っているように見えて、実は、抑えきれないほどの強い思いや気持ちを、恋に見立てて詠んでいるものもあります。「君」は、位の高い人、目上の人、を差す以外にも、男女のこと、ひいては、世の中の全ての人々を意味し、更に、天皇の意味にもかけられることもあるそうです。

国歌『君が代』の君が、すべての人を差していて、「みんなの国が永遠に続きますように」と歌っているように、この歌の「君がため」は、「みんなのために、世の中の全ての人のために」という意味があります。そうとらえると違う心も伝わってきますね。


68番歌,三条院(さんじょういん)

心にも あらで憂き 世に長らへば 恋しかるべき 夜半の月かな

【現代語訳】心ならずもこの辛い浮世を生きながらえることがあったなら、この夜更けの月も恋しく思い出されるのでしょう。

【背景】三条院である三条天皇は、第63代 冷泉天皇の息子で、寛弘8年(1011)に従兄弟の一条天皇の譲位を受けて36歳で第67代天皇に即位されました。時は、藤原道長が権力をほしいままにしていた時代。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」という藤原道長の歌はあまりに有名ですね。三条天皇は、藤原道真の権力の集中と横暴に心を痛めていましたが、それが道長には邪魔で邪魔で仕方がなかったのでしょう。

長和3年(1014)に三条天皇は失明してしまいました。献上されて飲んだ漢方に水銀が含まれていたからではないかと言われています。失明したことで、藤原道長は三条天皇に退位を迫りました。

天皇の権威の方が、政治的な権力者より上位であるはずなのですが、それを無視してしまえるほど藤原氏の権力は甚大だったのですね。道長の圧力に屈せず、三条天皇は退位しなかったのですが、突然の火事で皇居が全焼したり、間に合わせで作った仮設の皇居まで再度火災にあったりしたことで、退位を決意し、仏門に入り、まもなく崩御なされます。42歳の若さでした。

この歌は、第68代 後一条天皇が即位し、三条天皇が三条院となった時に詠まれた和歌です。藤原道長によって歪められていく日本の姿を憂え、生きながらえれば、満月(望月)も懐かしく思えるようになるだろう、藤原氏による横暴な政治にもそのうち影が差し、それすら懐かしいと思える時が来るでしょう、と詠んでいると解説する人もいます。

こういう歌の背景を知ると、かるたをするにしても、せめて意味を味わったうえで速取りする気持ちを持ちたいなとも思いますよね。


77番歌,崇徳院(すとくいん)

瀬を速み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

【現代語訳】川瀬の流れが速いので、岩にせき止められた急流が二つに分かれてもまた一つになるように、別れたあの人とも、いつかまた会いたいと思います。

【背景】平安時代末期、鳥羽院の第一皇子。曾祖父の白河法皇に可愛がられて5歳の時に第75代天皇に即位しますが、それはまだ20歳だった崇徳の父 鳥羽を退位させてのことでした。それゆえ、鳥羽院は、崇徳をよく思わなくなります。白河法皇がなくなると、23歳の崇徳天皇は3歳の実弟に譲位。近衛天皇となります。近衛天皇は17歳で崩御。今度は鳥羽院の一番下の息子が後白河天皇(当時29歳)として即位。崇徳院は後白河天皇と皇位継承をめぐって対立。保元の乱が起こります。崇徳院は藤原忠道(七十六番歌)讃岐に配流されます。


99番歌,後鳥羽院(ごとばいん)

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

【現代語訳】仏の道も人も愛おしい。仏の道も人も恨めしい。世のために思索を重ね様々な取り込みをしてきたけれどそれらが全て味気なく思える 。

【背景】99番歌 後鳥羽院のこの歌は、承久の乱の9年前、上皇になって14年目に詠んだ歌です。承久の乱というのは、鎌倉時代の承久3年、後鳥羽上皇と鎌倉幕府 北条義時 との間で起こった戦い。朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。王政復古を強く願われ決起され、破れた後鳥羽院。これで世は武家政治へと移っていったのですね。


100番歌,順徳院(じゅんとくいん)

百敷や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

【現代語訳】都の皇居は荒廃し、今では屋根の軒先にシダが生えてきている有様。いくら忍んでも忍びきれないのは、古き良き時代のことだ。

【背景】小倉百人一首の最後は、承久の乱に敗れ佐渡に流された順徳天皇(順徳院)の歌で締めくくられています。皇威が衰え、皇居が荒れ果ててしまっている様子。世が乱れていっている。戦乱の世の中になっていくことを止めることができなかった悲しさが、切ないまでに迫ってきます。

百人一首の歌紹介

百人一首の中から、抜粋で現代語訳と歌の背景を紹介しま


11番歌,小野篁朝臣(おののたかむらあそん)802-852:古今集

隠岐(おきの)(くに)に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける

わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ 海人の釣り舟 

現代語(げんだいご)(やく)】大海原に浮かぶ島々を野宿の地と目指し目指して、私は遠い隠岐の国へ漕ぎ出していったと、都の人々に告げてほしい、漁をしている釣舟よ。※わたの原=海、八十島=たくさんの島

【背景】小野篁(おののたかむら)小野小町(おののこまち)の祖父。承和(じょうわ)二年(八三五)、(けん)(とう)副使(ふくし)に任じられましたが、命に従わなかったため、承和五年、隠岐の国に流されました。この歌はその時のもの。嵯峨(さが)天皇(てんのう)は、二年後、承和七年に召喚(しょうかん)されました。遣唐使は、小野篁が乗船を拒否した第十九回遣唐使の後、(かん)(ぴょう)六年まで、五十六年間派遣が停止されました。そして、寛平六年、菅原道真によって廃止が決定されました。

【遣唐使にはどういう人が選ばれたの?】家柄が良くて気品があり、学問がよくできて人格者。容姿端麗で高身長。それが条件だったそうです。小野篁は清朝百八十六センチ。公卿の家柄で自身も参議まで上り詰めました。反骨精神あふれる人でした。

【深読み】

海人(あま)の釣舟」☛「あま」=「天」=「天皇」。

「海人の釣舟」=「遣唐使」

【遣唐使の始まり】遣唐使:舒明天皇二年(六百三十年)


12番歌,僧正遍照(そうじょうへんじょう)816-890:古今集

五節(ごせち)の舞姫を見てよめる

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめのすがた しばし止めむ

【現代語訳】天の行き来する道を吹き閉じて遅れ。美しく舞う天女たちを、しばらくでもここに留めておこう。

【背景】「五節(ごせち)の舞」は、新嘗祭、大嘗祭にあたって行われた少女楽の公事(宮中行事)。僧正(そうじょう)遍照(へんじょう)は六歌仙の一人。「古今集」には、良岑(りょうみねの)宗貞(むねさだ)という本名で記載されています。紀貫之は、僧正遍照を「歌の様は得たれども、まことすくなし」と評しています。その真意を想像するのも楽しいでしょう。

「まこと」=真情、   「まことすくなし」=「真情に乏しい」=「いささか政治的である」

【僧正遍照ってどんな人?】第五十代 桓武天皇の孫で、第五十四代仁明(にんみょう)天皇に仕えました。

【僧正遍照と遣唐使】僧正遍照は遣唐使が停止され廃止に至る五十余年の間に生きた皇統をもつ高僧です。「五節の舞」を舞う乙女たちの姿を見ながら、穏やかで牧歌的な美しい日本を守るために「天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ」と遣唐使の廃止を願って詠んだ歌だという説もあります。天=天皇

【六歌仙】西暦八五〇年から八九〇年ごろに活躍し、「古今和歌集」の初めにある序文の中で紹介され、作品に批評が加えられた六人の歌人のこと。

僧正遍照・在原業平・喜撰法師・小野小町・文屋康秀・大友黒主の六人。


24番歌,菅家(かんけ、菅原道真)845-903:古今集

朱雀院(すざくいん)の奈良におはしましける時に()向山(むけやま)にてよめる

このたびは (ぬさ)もとりあへず ()向山(むけやま) もみぢの錦 神のまにまに

【現代語訳】この度の旅は急なことでしたので、幣を用意もしてまいりませんでした。幸いにも紅葉が美しい折でございます。神様の御心に叶うと致しましたなら、この紅葉を幣としてご受納ください。

【背景】「朱雀院」というのは上皇御所の名前ですが、ここでは宇多上皇その人を指しています。昌泰(しょうたい)元年(八九八)十月に若草山の南にある手向山神社に行幸されました。お伴した菅原道真が詠んだ歌。まるで錦のような見事な紅葉を、自分たちが楽しむものではなく神への捧げものと詠んでいます。宇多天皇に仕えていた時の道真は全盛期でした。その全盛期に詠んだ歌が、神々の御心に忠実にあろうとした謙虚な歌。道真の人柄が窺えます。

【語彙】幣(ぬさ)☛ 神に祈る時に添えるもの。古代では紙や布で作ることが多く、旅行の時は途中の要所要所で神に安全を祈り幣を奉ります。   神のまにまに ☛ 神様の御心のままに

【菅原道真と遣唐使と藤原氏】菅原道真は宇多天皇の信認篤く、醍醐天皇の代には右大臣にまで上り詰めました。長年の懸案だった遣唐使の廃止を進言したことで、唐との交流で莫大な利益を権勢を誇っていた藤原氏の排斥運動にあい、遣唐使廃止の二年後には太宰府に左降され、宇多天皇の弁護も空しく二年後に大宰府で亡くなります。

遣唐使廃止にあたって菅原道真が献言した理由は、「唐は衰えている」「唐から学ぶものは少ない」「我が国施設が朝貢のように扱われている」「遭難が多く人材を失う」という四つが主なものでした。

【飛梅】「東風ふかばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」


54番歌、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)?-996:新古今集

中関白(なかのかんぱく)通ひ初め(はべ)りけるころ

忘れじの ゆく末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

【現代語訳】「お前のことはずっと忘れないよ」とおっしゃってくださいますが、先のことまではわかりません。そうであるなら、いっそ今日を限りの命であってほしい。

【背景】儀同三司は、藤原伊周(これちか)の雅号。藤原伊周は「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と藤原氏の権勢を詠んだ藤原道長の甥で、道長と対立していました。とても優秀な青年だったそうです。道長の怨みを買って大宰府に飛ばされてしまいます。恩赦で都にいる時に、妹(一条天皇の皇后)定子(ていし)が出産で亡くなってしまうという悲運にも見舞われます。その後、伊周は宮中に復帰しますが、その時の役職を揶揄する気持ちを込めて、儀同三司という雅号を使うようになりました。

この歌は、その伊周のお母様である貴子(きし)が、夫である藤原道隆と夫婦になる前十代の時に詠んだ歌です。 儀同三司母貴子は、教養のあるとても家庭的な女性だったといわれています。夫 道隆急逝後、権力を道長に奪われ、家は没落していくのですが、儀同三司母は、夫道隆の死後一年後に亡くなったそうです。


57番歌、紫式部(むらさきしきぶ)970頃-1014頃:新古今集

はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、七月十日の比、月にきほひてかへり侍りければ

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

【現代語訳】久しぶりに巡り合えたのに、それともわからぬうちに、あの人は帰ってしまいました。まるで、出たと思ったら夜半にはもう沈んでしまったあの月のような人ですこと。

【背景】この歌は、ずいぶんと会っていなかった幼友達に会った時の歌です。

【百人一首の中の紫式部の家系の歌】

27番歌:曾祖父 藤原(かね)(すけ)「みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ」

58番歌:娘 (だい)弐三位(にさんみ)「有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」

98番歌:末裔 藤原家隆 「風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける」


61番歌、伊勢大輔(いせのたいふ) 平安後期:詞花集

一条院の御時、奈良の八重桜を、人の奉りて侍りけるを、そのおり、御前に侍りければ、その花をたまひて、「歌詠め」と仰せ言ありければ

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

【現代語訳】かつて栄えた奈良の都の八重桜が、今日は京の都の宮中で美しく咲き誇り、良い香りを漂わせています。

【背景】奈良から宮中に届けられた八重桜の献上品を、宮中で受け取る役に伊勢大輔が抜擢されました。その時、藤原道長から急に即興で詠むように言われ、即座に返したといわれているのがこの歌です。

奈良から毎年天皇に桜を献上する儀式があり、その際必ず皇居にお仕えする女性が歌を一緒に献上することになっていました。この年は紫式部が行う予定でしたが、そのお役を伊勢大輔に譲ったそうです。伊勢大輔はこれをきっかけに才能を認められ、宮中の女官として大成します。中宮定子(ていし)のいとこ、高階(たかしな)(なり)(のぶ)と結婚して三女をもうけ、晩年には72代白河天皇の傳育(ふいく)(養育教育)の任にあたりました。孫は神祇(じんぎ)伯をつとめました。

【語句】九重:古代中国の王宮が九重の門を持っていたことに由来し、京の都の皇居を指します。

「いにしへ(古)」と「けふ(今日」が対。「けふ」は「今日」と「京」の掛詞。「京」は「奈良」と対。七(奈良)、八(八重)、九(九重) と数字を連続させて動きを出しています。


62番歌、清少納言(せいしょうなごん) 平安後期:後拾遺集

世を込めて 鳥のそらねは はかるとも よにあふ坂の 関はゆるさじ

【現代語訳】夜が明ける前に、鶏の鳴き声など真似をして関守である私を騙して通ろうとしても、この関所だけは決して通してあげませんよ。

【背景】この歌は、藤原(ゆき)(なり)との歌のやり取りで作られた歌です。 ある日のこと、行成と清少納言は夜遅くまで彼女の部屋で話し込んでいましたが、行成が「宮中に物忌みがあるから」と帰っていきました。そして翌朝、行成から「鶏の声にせかされてしまったので」という手紙が来ました。そ戸で、清少納言は「あんな夜更けに鶏の鳴き声ですか?きっと孟嘗(もうしょう)(くん)の鶏なのですね」と返信をおくります。そうしたら、また行成から返信が届きます「それは(かん)谷関(こくかん)の関のことでしょう。あなたとは逢坂の関ですよ」と返事が来たので、それにこたえておくった歌がこの歌です。

(かん)谷関(こくかん)のお話『史記』】中国の戦国時代、孟嘗君が秦に使いに出されたところ、秦王は孟嘗君を殺そうとしました。孟嘗君は逃げ出し、深夜に函谷関という関所に着きます。この函谷関は、鶏が泣かないうちは開けない、という決まりがありました。そこで、部下の鶏の鳴き声の上手いものに上手に鳴かせたところ、鶏がつられて皆鳴き出し、門が開いて通ることができた、という故事。 清少納言の学識豊かで機知に富んでいることがわかる歌ですね。

百人一首に登場する歌人の関係が解る図をつくってみました。

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